声を聞かせて
何事もなかったように、普通の学園生活が戻ってきたかのように見える。
表面上は。
悪質な噂が回っているのも知っている。
俺ととの。
だが俺はそれを知らないふりをして、何事もなかったように日々を過ごす。
誰に何を言われようが、何も分からないふりをする。
分かっている。それが紛れもない逃げだと。
逃げるのが嫌いな俺が自ら逃げている。
ただ何度言われても答えられないのだ。
事故の時にあいつの名前を叫んだこと。
覚えてないとみんなに言ったが、あいつの名前を叫んだのは覚えている。
どうしてなんて言われても、俺には答えがない。
頭じゃなくて体が勝手に動いて、口が勝手に開いたと。
俺らしくもない回答を答えるわけにはいかない。
だから俺はただ口を閉ざすしか道はなかった。
俺の中で全てが億劫になっていた。
部活も学園生活も、仲間やミナミとの事も。
全てが元通りになったなんて、誰が思っているのだろうか。
それに、がまだ登校していない。
あれからの泣き顔や後姿が脳裏に浮かんでは消える。
あいつのことが気になって仕方がない。
何なんだ。一体。
気になって仕方がないなんて、この俺が思うこと事態がおかしい。
ありえない話だ。
一人の女のことが気になるなんて今までなかったことだ。
ミナミは別だ。
あいつは別で・・・・・・・。
誰も見ていないと、ため息ばかりでる。
この俺がなんてざまだ。
一人の女の存在にこうも感情を揺さぶられるとは。
恋人でもなんでもないただの女に。
そう、ただのその他大勢の一人。
「帰るか………」
誰もいなくなった部室を見回し、戸締りをする。
一緒に帰りたがっていたミナミは先に帰した。
最近はミナミと一緒に居ることも少なくなっている気がする。
たった一人の女のせいで俺はこうもおかしくなっているのか。
誰かに聞こうとも、そんなことを聞ける相手がいるはずもない。
「馬鹿らしい」
自嘲気味に笑って、部室を後にした。
もうすでに辺りは暗くなっていた。
すっかり季節は冬に向かっている。
まだ7時半だというのに、他の部活も終わっているようで、人の気配がない。
気がついたのはあいつと俺と同時だったと思う。
派手な髪色は、外灯の明かりでキラキラと光っていた。
「跡部く〜ん」
相変わらずへらっとした笑顔で、両手でこっちに手を振る。
どこの子供だ。
高校生になっても進歩のない奴。
「あいつは登校してない。それにテニス部は辞めた」
引き出しに入っている泥だらけの退部届け。
正式に入ったわけじゃないのだから、退部というのもおかしいけれど、もっとおかしいのは俺だ。
あの退部届けを監督に出せずにそのまま引き出しに仕舞ってある。
あの事故の混乱で紛失したのかと思いきや、泥だらけで机の上に置いてあった。
それを何故か俺は大事に机の中に仕舞っているのだ。
誰にも見つからないように鍵などかけて。
まったく、俺らしくもない。
何もかもが俺らしくない。
自分の行動に説明がつかなくて、本当は暴れたい気持ちだ。
「知ってる。ちゃんのことなら。退院も付き添ったしね」
難なく答える千石を見て、何故か胸の奥に黒くてドロッとしたものが流れてくる。
「だったら何故お前がここにいるんだ?」
「跡部君と話をしたくてさぁ〜。待ってたんだよ。時間あるよね?」
断られることなんて微塵も感じていない口調だ。
「拒否権はないように聞こえるが」
嫌味を込めて言ってやるが、千石は楽しそうに笑う。
「だよねぇ。拒否なんて受け取らないよ。何のために俺が跡部君を何時間も待ってたと思ってるだよ?」
「俺は頼んでない」
「でも、俺の話は興味あるよね?」
意味深な笑みを浮かべ、俺を見る千石。
このまま千石の話を聞かなくても、俺は困りはしないはず。
だけど千石の言うように興味はあった。
多分、いや、絶対にの話だろう。
それ以外に考えられない。
こいつが俺に会いにきたなんてことは、100%絡みだろう。
「ちゃん。転校するの知ってる?」
へらっとした顔をなおすこともなく、唐突に話を始める。
自分の眉間に皺がよったのが、自身で分かる。
千石も俺の表情を、見逃すわけがない。
さらにへらへらした顔で続ける。
「俺らの学校の編入試験受けるんだってさ。もし編入できたら、テニス部のマネージャーに勧誘するつもりだよ」
「お前は、毎回さぼりの幽霊部員同然だろうが」
胃がムカムカしてきて、千石の鼻をへし折らねば気がすまないぐらい、俺は気が立っていた。
「ちゃんが編入してきたら、ちゃんとまじめにテニス部に参加するに決まってるじゃん。そんな事もわからないの?
天才と言われる跡部君なら、俺の気持ちも分かってると思うんだけどなぁ」
わざとらしい言い方に、俺の眉間の皺は更に深くなる。
「お前の一方通行だろうが。あいつはお前のことが好きじゃないし、望みも薄い。あきらめるのが懸命だな」
俺の言葉に千石は肩をすくめる。
「それって跡部君の見解でしょう。本人がどうなのか分からないし。第一、跡部君より一歩も二歩もリードしてるのは確かだけどね」
「くだらない」
吐き捨てるように言ったが、千石の言葉にどうやってもイライラしてしまう。
この感情はなんだ?
俺にはミナミがいるのだから、千石がと付き合っても関係のない話だ。
いつまでもこのくだらない話を続けるのだろうかと。
俺は興味のない顔で、千石に背を向けた。
これ以上話をしても不愉快になるだけだ。
そんな俺の背中に、千石が言葉を続けた。
「ねぇ、跡部君。俺とちゃん、もう付き合ってるんだよ」
幾分トーンの落とした声で、千石が言った言葉に、俺ははじかれるように振り返った。
「……………」
しばらく無言で千石と向き合った。
何だ?
この禍々しいほどの感情は。
俺のどの部分から流れ出てくるんだ?
千石とが付き合っている?
嘘だと叫びたい感情は俺のどこから出てくるんだ。
「……………嘘だよ。安心した?」
口調がどこか軽い感じだが、目は笑っていなかった。
まるで俺の心を試すかのような態度。
「俺、跡部君が嫌いなんだ。その手に掴んでるもの、ちゃんと理解してる?」
よく言われる言葉だ。
うんざりするほど、羨ましいとばかりに言われる言葉。
千石の口から聞くとは思わなかった意外な言葉に、ちょっと皮肉った笑みを浮かべる。
「生まれた環境と恵まれた周囲は俺のせいではないし、ただのオプションだと思っているが」
「そうじゃなく!!」
千石が声を荒げた。
珍しいほど千石は、怒りを露にした。
「あんたの環境や、テニスのことじゃなく!ああ、理解してるさ。あんたが覚えてないことも、本人の意思じゃないことも!
でも!でもなんで手に掴んでるのに、気づかない!気づこうとしない!?
いらないのなら、その記憶ごと、俺に丸ごと譲ってよ!なんで思い出さないのに、あの子を手にしてるんだよ!」
一言も理解できなかった。
千石の怒っている意味が分からない。
何について怒っているのか理解できない。
だが、に関することだとは分かる。
話の内容が理解できなくても。
千石は何を知っているんだ?
何を理解しているんだ?
俺の知らない何を知っている?
「千石?」
訝しげに名を呼ぶが千石は返事を返さなかった。
たださっきまで怒りでいっぱいだった目が、だんだんと悲しみでいっぱいの目になっていくのが分かった。
「ごめん・・・・・。跡部君に八つ当たりして。跡部君は悪くないのにね・・・・・。でもさ。
もう解放してあげてよ。必要ないんでしょ?跡部君には他に恋人がいるんだから、言ってあげてよ、本人に。
お前なんて必要ないって。じゃないと、またあの子は一人苦しむんだから」
必要ない?
に?
何で俺の言葉で解放されるんだ?
考えれば考えるほど、頭痛がしてくる。
こんなに分からない問題を突きつけられたのは、初めてだった。
千石が言えば言うほど、意味が分からず、ただ理解できないパーツだけが増えていく。
しばらくただ千石とじっと見つめ合っていたが、突然やつはへらっと笑った。
「ごめん。ごめん。本当にただの八つ当たりだね。忘れてよ」
忘れろって言われて忘れるわけがない。
第一、ころころ変わる千石の様子こそ、とても大事な用件だと言っている様なものだ。
「忘れない」
きっぱり言い切る俺に、千石は複雑そうな笑みを浮かべた。
「お前が何を言っているのか、いまだに分からないけど、俺は忘れない。忘れてほしくないんだろう?」
千石は否定も肯定もしなかった。
「跡部君。一言だけ、俺に譲るって言ってくれない?譲るってだけでいいからさ」
一言だけ。
簡単でしょ?
そう言う千石をただ見つめることしかできなかった。
言葉がのどに張り付いたようにでてこない。
譲るって何を?って聞かないでも分かった。
俺の所有物でもないものを譲るとは変な話だが、俺は言えなかった。
言葉が何も出てこなかった。
千石はやっぱり変な顔で笑って。
「だから跡部君なんて嫌いなんだよ」
と、呟くように言って踵を返した。
俺はもう止めなかったし、止める言葉もでなかった。
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2011.3.21
コメント
千石一人で頑張りってます・・・・
男前だよね