声を聞かせて
「本当にひとりでも退院できたのに。ごめんね。なんか面倒ばかりかけて」
ほとんどない荷物を持ってくれている清純君に、申し訳ない気持ちでいっぱいで、
何度も荷物も持つとは言ってみたものの、まったく聞き入れてもらえなかった。
「俺が勝手にきたかったからいいんだよ。それに不二たちいないから俺がゆっくりちゃんを独り占めできるしね」
いつもあいつらが居たらうるさいのなんのってとぶつぶつ言いながら、にっこり笑う。
不二君たちは退院日に来てくれるって言っていたけど、前々から決まっていた練習試合に行かなくてはいけなくて。
いつものように、部活をサボっている清純君が代表みたいな感じで来てくれたのだけれど。
なんだかいつも申し訳なくて、清純君には負い目を感じてしまう。
「でもね……」
「ストーップ!」
謝罪の言葉を使う前に、清純君から右手の人差し指がにゅっと伸びてきて、ちょんっと私の唇を触った。
「ごめんねは、いらないよ。有難うで良いからさ」
にっこり人のよさそうな笑みを浮かべる清純君は、本当に優しい。
だから女の子たちにも好かれていたのだろう。
基本的にとても優しい彼だから、嫌な思いをした女の子なんてほとんど皆無だったのかも。
でもきっと本気な子には清純君深入りしてないんだろうな。
傷つける相手には触れなさそうだし、誠実にお断りしたりしてるような気がする。
困ったように清純君を見上げた私に、ねっともう一度笑みを浮かべる。
やっと小さく頷いた私に、清純君は満足そうに笑みを深めくしゃくしゃっと乱暴に頭を撫でる。
「有難う」
小さく呟いた私の声を聞いたのか、さりげなく私の手を握ってそのまま歩き出した。
やっぱりとても素敵な人だと思う。
何故彼のことが好きになれないんだろうとも思う。
景吾のことをあきらめようとはもちろん思っているけど、あれだけ好きだった人だ。
今すぐには忘れられないだろうし、気持ちの整理はつけられない。
景吾がだめだったら清純君とは、私自身、自分を許せないだろう。
それに清純君のことは素敵だと思っても、恋愛に発展するとは思えない。
本当はすぐにでも清純君を解放してあげるべきだ。
私なんかに関わってないで、他の子に優しくしてあげた方がいいよって。
だけどそんなことを言う資格なんてない私は、ぐっとその言葉をこらえて変わりに有難うって言うしかなかった。
「コーヒーがいい? それともお茶?」
たった1日ぐらいしかいなかったのに、なんだかずいぶん久しぶりに感じる我が家に浮き足立ったように清純君にお茶を勧める。
「気を使わなくてもいいよ。俺はちゃんと一緒に居られるだけでラッキーなんだからさ」
そう言いながら、お部屋をまじまじ見つめる清純君。
「ちらかってるでしょ。ごめんね。もっと綺麗だと良かったんだけど」
「ううん。俺の部屋の方が絶対に汚い。それにちゃんらしい部屋だね。なんだかほっとする」
昔はよく氷帝のみんなが部屋に来て遊んで帰ってたけど、こうやってお客さんらしいお客さんを招待するのは久々。
お盆にのせたコーヒーを持っていくと、清純君の手に見慣れたものが握られていた。
それを清純君はなんともいえない顔で見つめていた。
「それ、氷帝のみんなで昔とったものなんだぁ」
マネージャーをしてみんなで笑いあっていたころの写真。
消えてなかったのは、指輪と一枚の写真だけ。
ずっと清純君の優しさに甘えて、なんだかずるずる言えなくてここまできたけれど、清純君には聞く権利があるよね。
不二君には何とか言えたのに、清純君には言えなかったのはどうしてだろう。
黙っていつも分かってくれているような顔してたから。
私は本当に残酷なほど清純君に甘えてたんだろう。気がつかずに。
気がついてても、気がつかないふりをしていたのかもしれない。
優しい沈黙がとても心地よくて。
「コーヒー飲んで」
清純君の手に握られていた写真立てを受け取り、幸せそうに笑う自分を見つめた。
「清純君、本当にまったく聞かなかったよね。私と景吾のこと。氷帝のこと。ずっと不思議に思ってただろうけど」
「……うん。いつか話してくれるかなって思ってたし、話してくれるんだよね?」
攻める様な口調はまったくなくて、やっぱり清純君はなんだか安心する存在。
「最初はね。景色が二重に見えたの。町並みにもうひとつ町並みが透けて重なっているように見えて。
目の錯覚か、疲れか。そんな風に思ったし、それが現実なんて思えなかった。
でもどんどんその透けた町並みが濃くなるの。まるで現実だと言わんばかりに。
そのうち、人すら見えるようになった。そこにはいないはずなのに人が私の体を横切ったりしてね。
いよいよ、精神科にでも見てもらおうかと思った時に、不意にそれが現実になった」
清純君は口も挟まずに黙って聞いてくれていた。
「いつもは向こうの世界である景色が、現実となって私の世界になった。私の世界はまるでなかったかのようにするりと消えた」
知らない場所。
知らない人。
知らない町並みに知らない名所。
「着ていた制服さえ変わっていた。持っていた鞄も見覚えがなかった」
パニックになりながらも、持っていた鞄を漁ると、見覚えのない住所と生徒手帳。
「おまわりさんに住所尋ねて、たどり着いた場所がここだった。
そして持っていた鍵で扉を開くとまたパニック。知らない場所に知らない家。
でもそこには私が住んでいた部屋そのものが入っていた。
すぐに納得なんてできなかった。悩みに悩んでぐるぐる考えて。
なんだかまるでお化け屋敷に行くように学校に行ってね。
クラスもノートに書いてあったからなんとか辿り着いて、クラスに入ったら見知らぬ人が挨拶してきて。
挨拶しかえして、そして机はなんとかふざけたふりして教えてもらった」
まるで自分がずっと前からここにいたように、ぞっとした。
だけどよくよくみんなと話をすると、私は一週間前に転校してきたのだと言う。
「本当に意味不明なことばかりで、私の頭はパンク寸前だった。だけどね、どこかでわくわくしてた自分もいたの」
憧れていた世界だった。
どこかであれば見てみたい世界だった。
漫画の世界だと清純君には言えないけど、気がついた時には足が向いてた。
テニス部に。
憧れていた人たちは、この世界でキラキラと輝いてた。
「ちょっとずつこの世界に慣れて、なりゆきでテニス部のマネージャーをすることになって。
幸せだったんだよ。本当に、この世界にこられて良かった。もっとずっとみんなと一緒にいたい。そう本気で思ってた」
だけどそんな幸せはあっという間に、消え去った。
「また見えるようになったの。二重の景色。今度は自分が知っている世界だった。そう、元々いた世界の景色」
この世界に居てはいけないと言われたようで、ショックだった。
段々と濃くなる自分の世界。
別れたくなかった。
消えたくなかった。
自分があっちに戻ってしまった時に、みんなの記憶がどうなるかなんて想像したくなかった。
何度も必死に崩れそうになる自分をなだめながら、毎日毎日笑おうと必死になって過ごした。
そんな日々は、すぐに景吾やみんなにばれて、泣き喚いて帰りたくないって叫んだっけ。
最初は信じられない顔していた面々が、本気で信じてくれて、一緒に泣いてくれた。
岳人が一番一緒になって泣いてくれたっけ。
「帰ってしまった時は、苦しくて切なくてまた泣いて過ごしたの。戻りたいって何度も願ってね。でも……」
本当に帰ってきて良かったのか、今では分からない。
つらくても苦しくても帰ってきたかった。
でも、今は帰ってきてよかったのかと自問自答してしまう。
あんな想いをするくらいなら、ただ悲しんでもとの世界にいたほうが良かったのではないかって。
美しい思い出のまま、胸に閉っていたほうが良かったのではないかって。
景吾と本当の別れをするなんて思ってなった。
それも、この世界にいて。
私という異質な者が戻ってきたせいで、苦しまなくてもいい人が苦しんでいる。
起こらなくてもいいことが起こっている。
悲しまなくてもいいのに、怒らなくてもいいのに、自分一人がここに戻ったせいで。
みんなを苦しませている。
「ねぇ、清純君」
「何?」
「私ね、近いうちに転校しようと思ってるの」
ずっとずっと考えていたことだ。
同じ学校では何かと支障がでる。
このまま会わない方が、みんなにも自分にもいいだろう。
向こうの世界に帰れない今、転校するのが一番の解決策だ。
逃げるわけではない。
「私、頑張ったよね、もう、いいよね」
清純君ではなく、自分に言い聞かせるように呟いた言葉と共に、涙が一粒こぼれた。
賛成するように頭を撫でてくれる清純君の手が気持ちよくて、今だけその優しさを受け入れることにした。
景吾。
あなたを忘れる努力をしようと思います。
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2010.5.4
☆コメント
そろそろ……