声を聞かせて




臨時マネージャーとして3日がたった。
特に問題はなく、続いているのだと思う。
朝練も放課後の部活動もとりあえず滞りなく終わっている。
空気はあまりよくないと思うけど。
それでも、再びテニスコートに立てた喜びは大きい。
ほんの少し、いや、胸が痛むことは多々あるけれど…………。


「凄いよねぇ。さん。たった3日でもうパソコンまでいじれちゃうんだから」
パソコンの画面を覗き込むように、岸上さんが尊敬の言葉を述べる。
「そんなことないよ。たまたまパソコンができるだけだから」
「私なんていつもスコアを入れ込むだけで一苦労だよ。志保に何度も助けられてたんだから」


氷帝のテニス部マネージャーにも小さな部室がある。
レギュラー室の横に建てられたものだが。
二人で使うには十分な大きさだ。
中には炊事ができるようなキッチンもある。
他校はドリンクは水道水などを使っているが、氷帝は浄化水を使っている。
さすがお金持ちの学校。
ほとんど景吾の寄付金でできたものだけれど。
『俺様が水道水のドリンクなんか飲めると思うのか? あーん?』
と一言言うと、次の日から許可書をかかげて、テニス部レギュラー部室とマネージャー室の工事が始まったそうだ。
レギュラーの部室に一人一台のパソコンがあるように。
マネージャー室にも一人一台パソコンがある。
私の作りかけのデータは岸上さんのパソコンの中にあるとは思うのだけれど。
あればコピーして志保のパソコンに入れ込んで、途中まで作っていたものを仕上げられるのだけれど。
今のところ、チャンスがなかった。
一緒に鍵を開けて入り、出て行くのだから。
部活の途中不審行動はできないし、できれば避けたい。
警戒されている身だからこそ、誰にも気づかれず、自然に岸上さんのパソコンを触れる機会を作らなくてはならない。
休み時間に、用もないのに一人で部室に行くなんて論外だ。
どこで誰が見ているのか分からない。
スパイでもないのに、スパイにでもなった気分。
だけど、今日はチャンスがやってきた。
今日ならうまくいくだろう。


「岸上さん。今日のデータまだかかるみたいなの。今日、跡部君と帰るんでしょう? 先に帰っていいよ。
 鍵なら明日の朝に渡すから」
多分上手に言えたと思う。
言葉のはしから不自然さは見られないように、笑顔さえ繕ってみた。
「でも…………」
「いつものことだから後10分ぐらいで終わるけど、待ってるんでしょう?」
「うん。そう……だけど」
不安げな表情でこちらを見つめてくる。
帰りたいけど、悪いからどうしようかという気持ちで揺らいでいるのだろう。
「待たせたら悪いから、いいよ。私も終わったらすぐに帰るから」
「本当に?」
「ええ」
頷くと、にっこり笑ってほっとしたように頷いてきた。
「ごめんね。毎日。志保がいなくなったら私がやらなきゃいけないのに」
「こんなの簡単だから別に気にしなくてもいいのに」
前は毎日やっていたことだから苦にはならない。
それに今日は残るためにわざと、作業の手を遅くしたのだから。
「有難う。本当にさんって凄いね。仕事も早く覚えて、すごくてきぱき動いて羨ましいよ。
何でもできるっていいなぁ。私って不器用だから」
それにと続けて岸上さんは呟いた。
「たまに怖くなるの。何でここにいるんだろうって。私がここに居ていいのかなって。
 夢じゃないかって思うの」
「…………」



『夢じゃないよね。景吾…………。ここに私は居るのよね。ちゃんと掴まえててよ。
 私……怖くなるの。だってここは私の世界じゃないもの。ここに居ていいのかな?
 あなたの傍に居てもいいのかな? ねぇ、私の夢じゃないよね?』




「ああ、ごめんなさい。変なこと言っちゃったね。
 …………指輪がなくなって情緒的に不安定なのかもしれない」
自嘲気味に呟く岸上さんに私は言葉が出なかった。
第一、彼女に何を言えよう。
無意識に胸元に手をあてた。
「戻ってきたら、今度こそ絶対に手放さないのに。絶対に…………」
呟く彼女の声に、何か押し迫った様なものを感じられたのだが、すぐに分からなくなった。
表情ががらりと変わって、明るい声を出す。
「じゃぁ、明日。よろしくね。本当にごめんね。また朝練で」
「ええ」
頷くと、彼女はにっこり笑って出て行った。
それをため息と共に見送ると、感情を振り切るように首を振った。
景吾が岸上さんと一緒に帰ると約束していたのを見て、胸が痛んだけれど。
でも、あれは私の景吾ではない。
別人なのだ。
そう、私の景吾はもういない。
何度も何度もここにきて、自分に言い聞かせる言葉。
それでも胸は痛むし、姿を見れば切なくなる。
諦めようとしているのだけれど、それは無理な話なのか。
ここでの思い出が多すぎる。
優しい記憶と、切ない記憶。
大事な宝物が多すぎる。
だけどこのまま引きずることもできない。
もう、景吾の隣には別の人がいるのだから。


さようなら。
そう言いたいのに、思い出の景吾にも、今の景吾にも何も言えず。
指輪を握り締めたまま黙り込む私はきっと弱い人間なのだろう。


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☆コメント
進んでません。
何か微妙に動かしてますけど、あまり関係のなさそうなデータの話?
それでも主人公の心情が分かるように書いております。

2009.1.24