声を聞かせて



部室に入ろうとする景吾を引きとめ、紙を差し出すと、その紙に書かれた文字を見て眉をよせた。
乱暴に紙を奪うと、あっと思う間もなく、その紙は景吾の手の中でつぶされた。
「どういう意味だ?」
怒っているようだけれど、どうしてそう怒っているのか分からない。
「そろそろ有坂さん復帰できそうだし、データ表も完成したから…………だから」
言葉がまとまらなくて、口の中で消えてしまいそうな言葉を景吾が引き継いだ。
「だから辞めたいと?」
景吾の手の中にあるのは、退部届けだ。
元々正規の部員でななかったけれど、辞めるのにはこうやって出すのが一番正しいかなと思っての退部届け。
だけど景吾はお気に召さなかったようだ。
本当は志保が帰ってくるまではと思っていたけれど。
ジローちゃんのことがあって、ここに来るのが辛くなった。
思い出して欲しいとは思っていたけれど。
その思い出は、みんなを苦しめるものかもしれないと思ったら。
どうやっても思い出して欲しいなんて思えなくなった。


未完成のデータも完成したし、その使い方も景吾に説明した紙と共に渡した。
全部やりきったとは言い難いけど、それでも個人的には満足いくぐらいには、マネージャーとしてやり遂げたと思う。
最後だからと言い聞かせて、悔いなく動いた。
景吾の恋人と一緒にマネージャーをするのは辛かったけれど、それが現実だと目に焼き付けた。
だから。
私はもう引くべきだと思う。
この曖昧な場所にいるのは自分にも、みんなにもよくない。
ジローちゃんがあんなに苦しんだのは私がいたから。
鳳君があんなに悲しそうに私を見るのは、きっと自分がいるから。
みんなあの時の表情より曇っていて、明るい笑顔を見れることがなかった。
だから…………。
もうその時がきたのだと。




「最後まで続ける意思はないと言うのか?」
景吾は責任感のない人は嫌いだ。
いくらもうすぐ志保が戻るとはいえ、途中で投げ出したように辞める私は好ましく思えないだろう。
嫌われるだろうなと思ったけれど、元々好かれてもいないのだから今更だ。
小さく頷くと、景吾は眉を更にあげる。
景吾は忌々しそうに手のひらの中の、退部届けを見つめていた。
声をかける雰囲気ではなくて、ただ黙って景吾を見るしかなかった。
こんな景吾は初めてだ。
私の知っている景吾は、退部届けを持ってきたらすぐに黙って受け取って了承する人だったからだ。
彼曰く『辞めるというやつを引き止めても無駄だ。時間も、体力も全部意味がねぇ。
 一度辞めると決めたなら、もう精神的な何かが切れてる。何を言おうが、しようがもう無理だ』
そんな景吾が私が辞めるのを、ためらっているような態度をとる。

それを嬉しいと思ってしまう私は、愚かなのだろうか。
景吾の何かに私が触れているということなのだろうか。
だけど、やはりそれが苦しい。
希望という光をここで見つけたくなかった。
その何かに縋り付きたい衝動を必死になって抑える。
もう誰かが苦しむのは見たくない。
もう誰かが私のために不幸になるのは嫌だ。
それに何より自分自身がもうこれ以上苦しみたくなかった。
逃げると言われても構わなかった。
本当に逃げるのだから。
私にこの場所に居続ける勇気はもうない。
ここに来るのは、もう嬉しいから苦痛になっている。


景吾はため息をつくと、私に視線を向けた。
「意思は固いか?」
返事ができずに、無言で頷く。
「分かった。とりあえず預かる」
了承してもらえなかったけど、受け取ってはくれたので安心して踵をかえした。

きっと意思は変わらない。
変えれない。
もうここは帰る場所ではない。
私が居てはいけない場所だ。

さようなら。

まだ声には出せなかった。




「おい!!」




景吾の大きな声が背後から聞こえた。
それと同時に、何か崩れる音がする。
振り返った私が見たものは、長い棒? 木?

瞬時にどこかの部室の修理とかで組まれていた木だと思い当たる。
ぶつかると覚悟した瞬間。
誰かの熱が私を抱きしめた。



!」



何度も何度も聞いたことのある声だった。
何度もそう呼んでほしいと願っていた声だった。
触れたくて、抱きしめたくて、渇望してやまなかったものだ。
その声が聞きたかった。
聞かせてほしかった。

ねぇ、私のこと思い出したの?




辺りに轟音が響いた。



そして妙な静けさが漂う。
痛みにあげき、閉じた目を開くと鮮やかな赤が目に飛び込んできた。
生温かい滴が頬に落ちた。
瞬きすることすら忘れて、体を動かすと、ガタンッとまた木の倒れる音がする。
何を見ているのか信じられなかった。
理解できない。
手足が小刻みに震えだす。
唇も振るえうまく声が出なかった。

「けい…ご」

つぶやいた言葉はうまく言葉として口からでたのかは分からない。
「景吾?」
体の重みが、ずるっと私から落ちた。
重みになっていたのは景吾だ。
額から流れ落ちる血液を見て、全身が震えだした。






「景吾!!!!!!」






全身から搾り出すように絶叫した私の声が、辺りに響いた。


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☆コメント
お待たせしました。
ここまでくるのに長かった気がします。
頭の中に浮かんでくる風景や情景が小説になると
こうもうまく書けないのがもどかしいなと思ったのが特にこの回に感じました。
うまくみなさんに伝わっているといいなと思いつつ、この辺で。


2009.5.26